ビスケのちょこっと日記 *英語と読書感想*

英語学習と、本・TV感想など。

リポ/複言語主義とは

複言語主義 (plurilingualism) という考え方が気になってしょうがない。

英語教育においてかなり大切な考え方であるように見えるのだが、教科書(英語科教育法2)を読んだだけではわからない。
 
私の疑問点は下記3点。
  1. 複言語主義とは何か?
  2. 複言語主義は日本の英語教育にとってどんなメリットがあるのか?
  3. 教科書P23では、複数言語能力が役立つ場面、空間を作ることが教育の目的とあるが、どういう意味か?
 
特に3点目、教科書の文章の意味がわからない。
空間を作ることが教育の最終目標という意味なら、
いち教員にできることは
担当した一年間の学習形態で空間作りを実現するだけだ。
空間を作るなんて、国家社会レベルで目指していただくしかできんだろ。
空間を作ることが能力育成につながるという意味?
もしそうなら、どんな能力を目指すべきかわからない。
 
で、複言語主義をネットで検索。
 
私としてはぐぐって一番上に出てきた、
次のホームページがとても参考になった。
気になる方は下記リンクにとぶことをおすすめします。
 
「英語教育の哲学的探究」より
複言語主義(plurilingualism)批評の試み
柳瀬陽介・著
 
複言語主義について上記ページを読んで私なりにまとめてみる。
以下は私の理解のためのメモなので、
正確に理解したい方は上のリンクとんだ方がいいですよー。
 
1. 複言語主義とは何か?
 
以下引用。
それに対して複言語主義とは、ある人間が、一つ以上の言語に、たとえ部分的とはいえ開かれて、ある程度の複合的な能力を持ち、コミュニケーションのための言語を自分の第一言語だけに限定しない価値観を有していることを意味している。
 

 

「部分的とはいえ」というところがポイントに感じた。
英語が話せる人というと、
ネイティブスピーカーのようになることを目標としてイメージしてまっていた。私は。
 
ところが複言語主義は、そうではない。
英語(母語以外の言語)を完璧でなくとも、ある程度使うことができ、
異文化間でコミュニケーションをとれる状態を目指す。
 
定義としては次の箇所を引用する。
 
能力としての複言語主義の定義としてはCEFRの次の定義がしばしば引用される。
「コミュニケーションのために一つ以上の言語を使い、間文化4的やりとりに参加する力であり、そこでは人間が、いくつかの言語においてそれぞれ様々な程度の言語実力を有し、またいくつかの文化での経験をも有する社会的主体として見なされている。この力は、別個の諸能力を縦に並べたり、横に並べたりしたものとしてはみなされず、むしろ使用者が[その都度]引き出すことができる、複雑で、複合したとさえもいえる存在としてみなされている。(CE 2001, p.168) 」
とある。

 

やっと複言語主義の意味に近づけた気がする。

複数の言語がそれぞれ優劣をつけられずに存在し、コミュニケーションをとれる状態ってことかな。
そして言語使用者は主体的存在であると。
 
 
2. 複言語主義は日本の英語教育にとってどんなメリットがあるのか?
 
日本では、英語の存在感が圧倒的で、他の外国語とは大きな差があるように感じられる。
ご近所の韓国や中国の言語(や文化)を学ぶ機会は義務教育でほとんどないと言っていいだろう。
 
受験英語で難解な単語を覚えても、oral communicationでその単語を使えるかというと疑問だ。
 
本の学校教育で、複言語主義を取り入れるということは、
特に次の2点がポイントになると思う。
(1)英語が唯一の外国語ではないということ
(2)英語学習の目標は、英語を完璧にマスターすることではなく、英語をコミュニケーションツールとして使えるようになること
この2点は現在の英語教育の方向性に関わることだと思う。
(1)については、アメリカ英語やイギリス英語を至上のものであるかのように扱うのは偏りがあると思う。
(2)については、完璧を目指すあまりに、英語に対して厳しすぎる風潮があると感じる。
 
私が仕事で(ちょこっと)英語を使うようになって感じたのは、
自分の話す英語が文法や発音で未熟だということを気にしていては、仕事が正しく進まないということだ。
いくつかの失敗を経て私は、
自分の意見を主張する姿勢と、
誤解を避けるための正確性を重視して、話すようになった。
(自然な英文や文法の正しさより、意図が正しく伝わる表現を優先するようになった。)
 
私の英語力が上達すれば、気を付けるべき点はこれからいくらでも出てくるだろうけど、とりあえず今の力ではこれ。
 
私の仕事相手は皆ネイティブスピーカーではない。
国籍がバラバラで、お互いの共通語が英語だけなので、英語でやりとりしている。
英語圏でよく使われる表現を使っても通じない。
文化が違い、共有する知識が違う為、どう言えば通じるか、しかも無礼にならないように気をつけながら、コミュニケーションをとる。
 
各々の文化背景を考慮しながら、時に日本語、時に英語を使ってコミュニケーションをとる。
 
私の職場では、
イギリス英語の発音をすれば通じにくいだろうし、
お互いがわかる言葉を選んだ方が適切だと思う。
 
複言語主義、必要な考え方だと思う(・∀・)b
 
おまけ:ネイティブスピーカーの優遇について
 
以下引用。
 
現在日本では、グローバリズムの影響による英語熱の増大と、ややエスノセントリックな日本語愛の二つの動きは非常に目立つ。日本での「外国人」としては英語の「ネイティブ・スピーカー」は格段に優位な扱いを受けていること(そしてそれには「白人であれば」という条件も加わっていること)は昔から指摘されていることである。 
 
私の職場でも、何人かはほぼネイティブスピーカー並の英語力を持っている。しかしそのことは、特にプラスポイントにならない。
仕事内容を理解しているかどうかが重要なのだ。
英文の公文書を作るなら、外部発注すれば良いし、言語能力は仕事の基礎ではあるが、最も大事なのは仕事能力だ。何を考え何を行動するかが重要だろう。
 
 
英語を話せるようにならなきゃ!
という人が増える一方で、
エスノセントリック(自民族中心主義。自文化の優位を信じ、他文化を低く見ること)な人々の存在も少なくないと感じる。
どちらの立場にいる人も、
「外国語を話せる人」とは、
ネイティブスピーカーのように見える人を想像しているだろう。根拠ないけど感覚的に。
 
ところが複言語主義は
外国語、つまり母語以外の言語を完璧でなくとも、コミュニケーションのために使える状態になることを目指す。
そしてこれを生涯教育で目指す。
英語のネイティブスピーカーのような英語力が至上というわけではない。
 
お手本としてネイティブスピーカーの存在はありがたいものだし、
日本ではまだまだ外国人とふれあう経験は少ないので、ALTとして各学校に外国人がいてくれるのは大変ありがたいんだけど。
ネイティブスピーカーであろうとも、英語教育に精通してるかどうかは、その人によって違うから、一緒くたにするのは失礼だと思う。
 
 
このホームページを読んで良かったことはたくさんあるけど、
特に良かったのは、複言語主義の考え方が生まれた歴史的背景を知れたことだ。
 
以下引用。
「国家=国民=言語」という言語ナショナリズムにより、言語を国家・国民統合の手段として捉えた。国家(state)とは、同じ言語(language)を話す、同じ国民(nation)の共同体だと考えられた。同じ言語を話すことこそが国民国家(nation-state)の象徴であり構成要因であるとされた。
 
こういう歴史的背景があり、無理な言語使用の強制はうまくいかないという結果があったからこそ、
特定の言語(英語もしくは母語)が唯一の正義という考えを捨てて、
母語以外の言語をコミュニケーションのために切り替えて使う個々の存在を認めるという考えができたということかなと思った。
 
私的にまとめると、
複言語主義を英語教育に反映させるということの意味は、
どの言語(文化)も尊重しながら母語母語以外の言語を使ってコミュニケーションする力を
生涯育んでいこうってことかな。
 
で、教科書が言いたかったことは、コミュニケーションをする中で複数言語を使い、能力を育む空間を作るべきってことなのかなー。
 
こういう私の知識や理解が足りないために、
リポート書くところまでたどりつける感じがしないわー。
リポート締切まであと9日間、
どうなるやら……。
 

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